精進料理のお弁当
お寺様からの御用命です
いつもの仕事とは少々異なる精進料理
"味"について、今一度考えました
店主の禅問答の様な戯言…
ちょっと長いですが、最後まで読んで
頂ければ幸いです☺️
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今更ながらに考えた。
"懐"の『懐石』と"会う"『会席』とは
料理の成り立ちが違う。
"懐"、の『懐石』は、冬場に僧侶が十分に栄養取れなく寒い、
それを和らげるために懐にカイロのような温めた石を入れたところから始まる。
それを語源に持つ。
『懐石』はおのずと華美あってはならず、
山海の珍味を豊富に入れるような贅沢のもので
あってはならない。
本道は滋味を味わうものだと、
開店当時、心して向かった。
僧侶において食事は修行であるゆえに
僧侶の食事には《淡味》と言う意味合いが
含まれる。
《淡味》とは、塩分など強すぎたり、素材感を超え、
修行の妨げになる様な快楽の俗物ではあってはならず、
その淡い味わいの中にこそ素材を慈しむと言う意味合いがどうやらあるように思う。
開店当初そこまでの深い考察はできなかったが、
懐石の料理の味付けと言うものをずっと考え続けてきた。
どうやら《淡味》こそが懐石料理の真髄ではないかと思うに至った。
素材を大事に大事に扱う…
「素材を活かす」とよく言うが、この本来の成り立ちに踏まえて活かすではなく、
ともすると素材本来の持ち味をも崩すことが多いのではないか…
知見のある料理人でもなかなかそれを活かしきるまではいっていないのではないか…
〈これこそが淡味だ…〉
知らずに食べると普通に思えてしまう、
しかし、その淡い味わいこそ奥が深く、
実は本質的にその素材を一番理解し最善の味付けをしているんじゃないかと思う様になった
ただこれは若い時分には正直わからなかった。
それは若い時は塩味が多く必要であったり、
油脂が欲しかったりと淡味とは程遠い。
しかし、体の変調とともに60をあと5年で迎えるこの歳になり、
やっと理解を重ねられる様に思えてきた。
修行時代、師匠は、「懐石が一番美味しく出せるのは、
味が枯れてきた頃、還暦近くじゃないか」と仰っていた。
ああ、そうなんだなと今は思える。
お客様には、安心出来る味だとか、普通に美味しいと言われることも嬉しいのであるが、
実はこんな理由で葛藤がある。
つまり味を重ねて複雑味を出す事の方が実際素材を活かしきるとした場合、制約が減る事となるが、
逆に素材を慈しむ《淡味》を追いかければ道は険しくなる。
事実、淡味なくして、また懐石に在らずという思いの中、訴求点を何処に置くべきか正に葛藤だ。
飲食店のあり様、問題点も様々だが
美味しい素材を淡味で味わえるのも
気候変動を考えると世界に於いて
短い時間かもしれない。